島津家の初代当主は島津忠久(しまづ ただひさ)です。
彼は鎌倉時代初期の武将であり、後の島津氏の繁栄の礎を築いた人物として知られています。
生い立ちと出自
- 出生: 治承3年(1179年)生まれ。
- 母親: 比企氏の娘、丹後局(たんごのつぼね)。
- 父親に関する伝説: 源頼朝の落胤(らくいん)であるという伝説が強く残っています。これは、丹後局が源頼朝の寵愛を受けて忠久を身ごもり、北条政子の嫉妬を避けるために鎌倉を追放され、摂津国住吉(現在の大阪市住吉区)の住吉大社の境内で忠久を出産したというものです。この時、狐火が灯って出産を助けたという伝承から、島津家では稲荷信仰が厚く、雨が降ることを「島津雨」と呼び吉兆とする習慣が生まれたとされています。
経歴と功績
源頼朝との関係: 源頼朝の乳兄弟として育てられたとされています。
- 鎌倉幕府での活躍: 頼朝の御家人となり、奥州藤原氏の平定に従軍するなど、武功を挙げました。頼朝の上洛の際にも随行しています。
- 島津荘地頭職・守護職拝領: 鎌倉幕府が成立すると、文治元年(1185年)には薩摩国、大隅国、日向国にまたがる広大な「島津荘」の地頭職に任命されます。さらに建久8年(1197年)には薩摩・大隅の守護職にも任じられ、南九州における島津氏の支配の基礎を築きました。
- 比企氏の乱と失脚・復権: 母の実家である比企氏が、執権北条氏と対立して滅ぼされた「比企氏の乱」(建仁3年・1203年)によって、忠久は三国守護職や島津荘地頭職などを一時的に没収されます。しかし、後に島津荘薩摩方地頭職と薩摩国守護職は返還され、再び南九州での地位を確立しました。
- 承久の乱での貢献: 承久3年(1221年)の「承久の乱」では、幕府軍として後鳥羽上皇方の京方と戦い、武功を挙げました。この功績により、越前国守護にも補任されています。また、この頃には惟宗姓から藤原姓を称するようになり、島津氏が藤原氏の一族として定着するきっかけとなりました。
- 鎌倉での生活: 忠久自身は、晩年まで多くを鎌倉で過ごし、家臣を南九州に派遣して統治を行っていました。鎌倉では有力御家人として幕政に関わり、京都での天変の祈祷奉行や加茂祭の祭主を務めるなど、文化的な面でも活躍しました。
- 晩年と死去: 嘉禄3年(1227年)に、薩摩国地頭守護職などを嫡男の島津忠時に譲り、49歳で亡くなりました。
島津忠久は、南九州に広大な所領と守護職を獲得し、鎌倉幕府における有力御家人としての地位を確立することで、その後の約700年続く島津氏の繁栄の礎を築いた、まさに「初代当主」にふさわしい人物と言えるでしょう。