島津久経(しまづ ひさつね)は、鎌倉時代中期の武将であり、島津氏の第3代当主です。嘉禄元年(1225年)に生まれ、弘安7年(1284年)に60歳で亡くなりました。
生涯と経歴

  • 家督継承と鎌倉での活動: 弘安2年(1265年)に父である第2代当主・島津忠時から家督を譲り受け、鎌倉に赴きました。そこで有力御家人の一人として「昼番衆」に任じられるなど、鎌倉幕府の要職に就いています。
  • 元寇への対応: 建治元年(1275年)には、焼失した六条八幡の造立のために多額の寄進を行い、同年には元寇に備えるため九州に戻り、筑前(現在の福岡県)の守備を命じられました。
  • 弘安の役での活躍: 弘安4年(1281年)の弘安の役(元寇の2度目の襲来)では、島津軍を率いて参戦し、壱岐(現在の長崎県)に渡って奮戦するなど、大いに武功を挙げました。この活躍は『蒙古襲来絵詞』にも描かれています。
  • 薩摩への帰国と死去: 弘安7年(1284年)には、鹿児島に浄光明寺を建立しています。同年4月21日、筑前の筥崎(はこざき)役所で死去しました。享年60。墓所は鹿児島市の本立寺や出水市の感応寺にあります。
    功績と人物像
  • 元寇における防衛の貢献: 元寇という国家的な危機において、鎌倉幕府の命を受け、九州の防衛の最前線で奮戦しました。特に弘安の役での活躍は、島津氏の武名を高める重要な出来事でした。
  • 島津氏の在地化への転換点: 初代忠久、2代忠時は鎌倉で生涯を終えましたが、久経は元寇を機に九州に下向し、その地で亡くなりました。これにより、本格的な島津氏の南九州への在地化の足がかりが築かれたとされています。
  • 信仰心: 時宗を信仰しており、鹿児島に浄光明寺を建立するなど、信仰にも篤い人物でした。
  • 『蒙古襲来絵詞』への登場: 彼の活躍が『蒙古襲来絵詞』に描かれていることから、当時の武将としての重要性がうかがえます。
    島津久経は、鎌倉幕府の御家人として忠実に務めながら、元寇という未曾有の危機に際して島津氏の軍を率いて活躍し、その後の島津氏の発展の基礎を築いた重要な人物と言えるでしょう。